染織祭と時代衣裳

 

染織祭は、昭和6年(1931年)4月に行政と染織業界により挙行された祭りで、第3回染織祭(1933)より時代衣裳を着た芸妓が街を練り歩く女性風俗行列が加わり、ピーク時は約30万人が見物し、当時は葵祭・祇園祭・時代祭と並ぶ「京都四大祭り」と謳われた。京都の観光振興の役割を担うとともに、染織大国ならではの高度な染織技術を、衣裳を通じて全国に発信し、人々を魅了した。
これら衣裳は、女性時代風俗行列のために制作された上古時代~江戸時代末期にわたる143領の時代衣裳で、祭りの名にちなんで「染織祭衣裳」と呼ばれている。時代祭で行われていた支配階級の男性時代装束行列に対抗して当初は大衆行列が構想され、京都で活躍する有職故実等の研究家たちによって時代考証が行われたが、高度な染織技術を発揮するために、庶民から支配階級まで身分の幅を広げ、女性の時代風俗を再現した。
昭和12年(1937)日中戦争が開戦になると行列は中止され、以後復興することはなかったが、女性の風俗行列という意思は、のちの時代祭に反映された。染織祭の行列の前に行われていた染織の神々を奉る祭祀は昭和26年(1951)まで続いていたが、それもなくなり、いつしか人々の記憶からも消えてしまった。
染織祭の運営組織である染織講社は、祭りの復興叶わずその役目を終え、染織祭衣装は本部のあった平安神宮に保管された。昭和26年(1951)、染織祭衣装は京都織物卸商協会(現:公益社団法人京都染織文化協会)に譲渡され、現在も協会により保管されている。