<スタッフ紹介>

北野裕子

 

コラム

 

染織祭の物語

 

■第19回 染織祭の背景

     2.室町問屋の思惑C室町問屋内部の問題

 

 

それでは、精練をめぐる丹後産地と室町問屋の関係についてお答えしましょう。津原武丹後縮緬同業組合長は昭和5年(1930)の組合機関誌に四大商店が全国から4000人余の呉服商を京都に招いて丹後縮緬国練普及宣伝大会を発起するだけでなく、組合と京都縮緬商の間に入って意思疎通に尽力してくれていると書いています*。第8回の図に示したように、室町問屋には3つの形態があり、丹後産地はそのうち仕入れをしていた京都縮緬商との間が難しくなりましたが、一方で染呉服商の筆頭、四大商社は支援したのでした。

たとえば、丸紅京都支店は昭和46月、大阪で創業した阪急百貨店へ大量にちりめんを卸しました。阪急は呉服商から成長した従来型に対し、大衆を顧客とした電鉄系の百貨店で、創業から4ケ月目に世界大恐慌が発生しますが「どこよりも良い品をどこよりも安く」を掲げ、昭和6年には早くも売場を増床しています。当初は銘仙以上の呉服は贅沢品で置かない方針でしたが、要望が強く新しい売場を埋めたのはちりめんで、大衆はちりめんを購入し、お金ができた時に染めに出すという2段階で染呉服を手に入れました。

丹後ちりめんは生糸安に加え、国練の実施と震災復興で手機から力織機へ替わり、大衆でも求められる価格となり、戦争が本格化するまで需要が伸びます(下図)。このように丹後産地をめぐって、室町問屋内の京都縮緬商と染呉服商の間にも微妙な関係が生じていました。

そこで、染織祭の発端を思い出してみましょう。それは丹後縮緬宣伝大会の時に津原組合長と四大商社の懇談からでした(第6回)。四大商社は何らかの形で丹後産地や室町内部に抱える問題を修復しようとしたのではないでしょうか。

 

*津原武「丹後縮緬の検査について」(丹後縮緬同業組合『丹後縮緬』宣伝号1930年)5ページ

 

丹後における織物の生産数量(明治・大正・昭和)

丹後織物同業組合『組合史』1981年の巻末資料により作成。
元データは反とuが混在しているため、一反=4.2uで換算し、uで統一した。

 

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